認知症の方を”上手に扱う”のをやめた日

大切なPOINT

「優しくしたいのに、優しくできない」

「私がしていることは、これで良いのだろうか」

あなたは認知症をお持ちのご家族と向き合う日々のなかで、そんな思いを抱えたことはないでしょうか。

もしあなたがこのような悩みを感じられているなら、それは目の前の方があなたにとって大切な存在だからだと私は思います。

認知症のご家族に、あなたができるいちばん大切なこと。 それはきっと、たくさんの知識でも、特別な技術でもありません。

私は、認知症をお持ちの方々と向き合う現場で働く作業療法士です。 14年以上、この仕事に携わる中で、知識も技術も積み重ねるために努めてきました。 けれど、いちばん大切なことは、教科書ではなく、ある出会いが教えてくれました。

これは「専門家が教える正しいケア」の話ではありません。 むしろ、たくさんの知識と技術を身につけようとしてきたはずの私が、大切なことを見落としていた——その失敗の話です。

少し長い文章です。けれど、もしあなたが今、目の前の大切な人を思い、そのことで悩んでいるのなら、 どこかであなたの心に寄り添える一節があるかもしれません。

第1章 「扱う」という言葉

皆さんは、認知症をお持ちの方に「上手に対応できた」と思う日がありませんか? 私はあります。

介護を拒否されることもなく、穏やかに一日が流れ、自分も相手も取り乱すようなことがなかった。介護する側として、それは確かにほっとする一日です。 私自身、そういう日を「今日はうまくいった」と振り返ってきました。

けれど、あるときふと、その「うまくいった」という言葉に、わずかな違和感を覚えました。

うまくいった——とは、いったい何がうまくいったのでしょうか。

よく考えてみると、それはたいていの場合、「こちらの思うとおりに、相手を動かすことができた」という意味でした。

デイケアに行きたがらない人を連れてくることができた。介護拒否がある人をケアに誘うことができた。怒りやすい方を怒らせずに上手く対応できた——。 私は(ご本人の意思がどうであろうと)こちらの都合通りに、意図通りに「動かすことができた」「扱うことができた」ことを、ケアがうまくいったと感じていたのです。

「扱う」

このような言葉を、私は数多く使ってきました。 けれど、これらの言葉に、心の奥底で小さなざわつきを感じていました。

「扱う」という言葉は、どんなものに使うでしょうか。 道具、機械、動物、子供——。

「扱う」には、操作してこちらの思い通りに動かす意味が含まれます。 しかも、「扱う」側はいつも管理する上の立場で、「扱われる」側は管理される、十分な意志を持たないもの、というニュアンスが含まれることに気づきます。

どれほど優しく、丁寧に接したとしても、「扱う」という言葉で表されるかぎり、何か根本から違ってしまっている。 ご本人は私にとって、同じ人間として向き合う相手ではなく、こちらの思い通りに操作する「もの」になってしまっていたのです。 しかも「愛」「優しさ」「奉仕」の仮面を被って。

私たちは、ご本人を大切に思いながら、同時に上手に扱おうとすることができてしまいます。むしろ、優しい人ほど、怒らせまい、混乱させまいと配慮し、より巧みに相手を「扱う」ようになっていく。

では、私はなぜ、認知症をお持ちの方々をそんなに上手に「扱う」ことができていたのか。 それは、目の前の「人」への理解ではなく、認知症という「病態」についての知識と技術を身につけていたからです。

実は、記事を書きながら、ずっと引っかかっていたことがあります。

私はこれまで、「指示はひとつずつ」「声かけはゆっくりと」「はっきりした笑顔で」——などと、接し方の方法を周囲へ伝えてきました。 それらは間違いではないと思います。 むしろ必要なことです。適切な方法なしに安心感や愛情を伝えることはできません。 しかし、それらの知識と技術は「同じ人間として向き合う」という軸がなければ、「認知症の人」という顔のない一般化された「もの」の「取り扱い説明書」になってしまう。 その方がこれまで過ごしてきた彩り豊かな人生も、今抱えられている悩みも喜びも、人間性も、全てが「説明書」の行間から抜け落ちるのです。私たちの笑顔さえ、相手を思いどおりに動かすための便利な道具になりえます。

私たちは、自分たちの取り扱い説明書を読んだ人たちに「上手に扱われる」ことを、幸せと思うでしょうか。本望と思うでしょうか。自分の人生を生きていると思うでしょうか。

確かに、知識や技術を身につけることは大切なことであり、必要不可欠なものです。 認知症の病態への理解なしに、認知症をお持ちの方の生きづらさと心情に歩み寄ることはできないでしょう。

しかし、認知症をお持ちの方に同じ人間として向き合うことを忘れ、いつのまにか「もの」の延長として「扱う」こと。これは恐ろしいことだと、私は思います。

あるとき私は、知らないうちに彼らを「もの」として見て、上手に扱おうとしている自分に気づかされました。 気づかせてくれたのは、他でもない、認知症と共に生きるご本人たちでした。

第2章 当事者の声

第1章の終わりに、私はこう書きました。私が「もの」として人を扱っていたことに気づかせてくれたのは、認知症と共に生きるご本人たちだったと。

ある時私は、認知症の当事者の方が書かれた本を、ふと引き寄せられるように手に取りました。長谷川和夫先生の『ボクはやっと認知症のことがわかった』、藤田和子さんの『認知症になってもだいじょうぶ!』、佐藤雅彦さんの『認知症になった私が伝えたいこと』——。

そこに書かれていたのは、いわゆる専門書や教科書に述べられている認知症とはまったく違った「声」でした。とりわけ私の胸を打ったのは、長谷川和夫先生の言葉です。先生は、長いあいだ認知症医療の最前線で「外から」診てこられた医師でした。長谷川先生ご自身も認知症となり、認知症を「内から」見て、世の中に広まった認知症の誤解に満ちた偏見と、知られざる本質を悟られたのです。

何かを決めるときは、ボクたち抜きに物事を決めないでほしい。ボクたちを置いてけぼりにしないでほしいと思います

『ボクはやっと認知症のことがわかった』長谷川和夫 著 より一部引用

これを読んで、心の奥でぎくりとしました。先生がおっしゃるようなことを絶対にしていないと、自信をもって言えなかったのです。

ご本人を前に、まっさきにご家族に言葉をかけていなかったか?

どうせわからないと思って、言葉を省いていなかったか?

繰り返しの質問の裏の心をくみ取ろうとせず、面倒そうな態度をとっていなかったか?……

私はこれまで「認知症」ばかりを見て、その「人」を見ていませんでした。学んでいたのは「認知症」という病態のことばかりで、私たちと同じ一人の人として接するという当たり前のことを、頭の隅に追いやってしまっていたのです。

藤田和子さんの言葉も、私の胸に深く残りました。藤田さんは、若くして認知症と診断されながら、当事者として声をあげ続けてこられた方です。

言動がおかしいから物事を理解できていないと判断するのはどうでしょうか。今まで認知症の人の思いを聴くということをしてきたでしょうか? 認知症の人が自分の思いをもっているということを考えて接してきたでしょうか?

『認知症になってもだいじょうぶ!』藤田和子 著 より一部引用

彼らは、決して「上手に扱われたい」とは望んでいませんでした。 望んでいたのは、価値の劣った人間というラベルを貼られることなく、ただ一人の「人間」として、声に耳を傾けてほしいということだったのです。

——けれど、正直に言えば、感情は動かされたものの、こうして本から受け取ったメッセージも、まだ頭で、知識としてとらえたにすぎませんでした。

私が本当の意味で思い知ったのは、本のなかではなく、目の前のご本人と向き合ったときでした。「上手に扱いたい」と思っていた間は見えもしなかったものが、人として真正面から対したその途端、ありありと真実味をもって私の心に迫ってきたのです。ご本人の心の扉が開かれ、初めて同じひとりの人間として心に触れることができた。これまで「認知症」の人だと思っていた方が、認知症の「人」だったことに初めて気付かされ、無意識に固く固く築いていた「偏見」の壁が崩れる瞬間でもありました。

そのことは、この記事の終わりで、ある女性のお話とともに書きたいと思います。

その前に——専門家として学びに努めてきたはずの私が、この当たり前のことになぜ長い間気づけなかったのか。 次章では、そのことを考えてみたいと思います。

第3章 学ぶほど、”わかったつもり”になっていた

私はかつて、介護現場の惨状を目撃していました。介護サービスを行う上で、疲れ果て余裕がないスタッフ。意に沿わないケアを受け、抵抗する利用者。お互いの求めるものは食い違い、利用者の笑顔のためのケアのはずがお互いに追い込まれ、幸せとはとても言えない状況でした。

この状況を何とかするために、私は認知症関連の本を読みあさり、あらゆる勉強会に参加しました。私が認知症ケアに生涯をかけたいと決意したときでもあります。

脳の構造を学び、疾患の機序を学び、症状を学び、またご本人が安心できる関わりを学びました。特に、今も私が現場で使い続けているフランス発の認知症ケア技法「ユマニチュード」は、私の心に深く刺さりました。

印象に残っているのは、ユマニチュード発案者のイヴ・ジネスト氏の以下の言葉です。

攻撃的な認知症の患者さんなどいない。彼らはただ私たちが彼らを理解していないために行っている振る舞いから自分を守ろうとしているだけなのだ。あれは防御なのです。

NHK クローズアップ現代 イヴ・ジネスト氏の言葉より 一部引用

ユマニチュードを自分のケアの中心に置き、疾患の特徴を踏まえてケアを行う。すると、いわゆる「困難事例」と言われる方々と関わりを築けるようになりました。ケアに抵抗される方々にも、スムーズにケア(リハビリや入浴、トイレ誘導など)を提供できるようになり、笑顔を増やすことができるようになっていったのです。

「この知識や技術があれば、スタッフも利用者様もお互いに苦しまずに済む」

そう思った私は、現場の介護・看護職の方々に発信を始めます。事業所の認知症ケア改革の始まりです。私は自主グループを法人内で立ち上げ、未熟なりにお互いに苦しまずに済むケアの啓発に明け暮れました。たくさんのスタッフの皆さんが支援してくださり、利用者様の笑顔を徐々にではありますが、確かに増やすことができたと思います。

正しい疾患の知識を持ち、正しい関わりを学ぶことは、お互いに苦しみから抜け出る術だと確信しました。

しかし、私の心に一抹の違和感が残ったままでした。「ケアを知識と技法通りに提供すると、利用者は安心する。笑顔も増える。本当にこれだけでよいのだろうか。私はこのままでよいのだろうか」

知識と技術が「認知症の取扱説明書」を使っているような感覚になり、何かとても大切なものを置き去りにしている気がしたのです。

これは、専門職だけの話ではないかもしれません。ご家族であるあなたもまた、良かれと思って学んだ「正しい接し方」に、いつのまにか縛られてしまうことがあるのではないでしょうか。これまでの人生を共に歩んだ「家族」が、名前のない「認知症の人」にすり替わっている瞬間はないでしょうか。

誤解しないでいただきたいのは、それらの知識が間違いだったわけではない、ということです。 記憶やBPSDのしくみを知ることは、ご本人の置かれる状況と心のありかを知るのに必要不可欠です。背景を知ることは、「正しいケア」の基盤となり、不要な摩擦を減らします。私は今も、疾患の知識や技術を学ぶことの大切さを少しも疑っていません。

ただ、私が読み漁った専門書のほとんどが「その人を、私たちと全く同じ一人の人間としてどう尊重するか。認知症を一つの個性として認め、いかに同じ目線で対話し、愛するか。認知症になったからといって、同じ人間として当たり前の願いを本当に諦めなければならないのか。認知症ケアとは、人間的な意味で何をすることなのか。」という根本的な問いには、答えてくれませんでした。

今でこそ言えますが、いわゆる「扱い」が上達していった私はいつの間にか天狗になっていました。深い心の海の底をのぞこうともせず、「取り扱い説明書」を読んでひとりの人間を「わかった」と思い込んでいました。大きな過ちです。

知識は、その方の症状を説明してくれました。 けれど、その方自身に出会わせてはくれなかったのです。

この付きまとっていた違和感の正体を、私は一人の女性から教わることになります。

第4章 症状という仮面に隠された「人」との本当の出会い

その女性は、はたから見ればいわゆる「問題のある」利用者でした。暴言・暴力・介護拒否・帰宅願望……。最初は私も、彼女を「問題」のある「患者」としてとらえていました。

しかし、偶然のきっかけから、彼女の隠された願いがぽろりと口から洩れるのを聞いた瞬間、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。彼女は「問題」を起こしているわけではありませんでした。大切な人を想い、手を合わせたいのに、それがかなわず苦しみ続けていた、私たちと何も変わらない一人の女性だったのです。

そして私は彼女に「認知症ケア」をしようとすることをやめました。 その方に泥臭くとも真正面から向き合い、彼女が本当に求めていることを叶えたいと心に決めたのです。

彼女の何に代えても叶えたかった願い、それは大切な人の仏前で手を合わせること、ただそれだけでした。

ご家族に相談し、ご自宅から位牌と遺影を持ってこさせていただきました。 そして一緒に、ほこりをかぶった位牌を丁寧に磨き、遺影を固く絞ったふきんで拭きました。少しずつ綺麗になっていくのを見ながら、その女性の表情も穏やかに変わっていきました。 大切な人が好きだった花を一緒に摘み、供え、一緒に手を合わせた瞬間、その女性は涙を止めどなく流されました。

私も一緒に泣きました。

そのとき、女性はこう言われました。

「ここまでしてくれてありがとう。 本当に、生きていてよかった。」

私はその言葉を聞いた瞬間、認知症ケアの知識や技術、テクニックだけでは届かないものがあると痛感しました。

もちろん知識や技術は大切です。 しかし、木に例えるなら、それだけでは幹のない枝葉でしかないと思います。

本当に大切なのは、「症状」の裏側にいる「その人」の心の声に耳を傾けること。目の前の人を”認知症の人”としてではなく、”一人の人間”としてとらえること。上手に扱うこと、問題が生まれないようにすることではなく、泥臭くてもその方の人生、その方の痛み、その方の願いに、心を向けることだと気付かされました。

私はこの経験を通して、認知症ケアとは「症状への対応」ではなく、「一人の人間として向き合うこと」なのだと教えられました。

そしてこれは、特別な女性の、特別な話ではありません。あなたの目の前にいるその方の「困った行動」の奥にも、きっと、言葉にならない願いや、大切にしてきた何かが隠れているのだと思います。

この女性のことは、「真逆の認知症ケア⑥」にも書きました。あちらは、私が彼女の本当の願いに気づいた日の記録です。よろしければ、あわせてお読みください。

関連リンク:Instagram記事『真逆の認知症ケア⑥ 認知症を外から見る ではなく 内から見る』

終章 あと半歩、心の声に耳を澄ませて

ここまで、認知症をお持ちの方々を「上手に扱う」のをやめた日のことを話してきました。 けれど、正直に告白すると、私は今も、完全にやめられたわけではありません。

忙しさに追われた日、気づけば段取りを優先して、目の前の方を次に「対応」する相手として見ている自分がいます。たとえば、他のスタッフが見ている前で、『拒否の強い』利用者に技術を用いて応じさせ、周囲にケアのポイントを示したいと思う——そんな場面です。そのたびに、はっとして、立ち止まる。

「今の考えと行動は、本当に目の前の方のためか?」 「本当に愛と共感をもって向き合おうとしているか?」「目の前の方のためといいながら、自分の都合で動いていないか?」

今はまだ、私の心の中から「偏見」を消し去ることはできず、「偏見」の心と向き合いつつ自問自答する日々です。 しかし大切なのは、自分の中にも確かに「偏見」があるのだと気付いていることなのだと、あの女性が教えてくれました。

私が今意識するようにしていることは、特別なことではありません。

自分の中に、知らないうちに「こちら側」と「あちら側」を分ける偏見の心があると、その都度気づくこと。その心のままに動こうとしている自分に気づいたら、態度と言葉を選び直し、相手へ、周囲へ、そして何より自分自身へ、行動で示すこと。振り返って誤りがあれば、次に生かすこと。

そうしながら、目の前の「今のその方」だけでなく、長い年月を生きてこられた、その延長線上にいる一人の「人」として見ようとすること。「症状」というレッテルを貼っていないか自分に問い、それを剥がして、行動の奥にある声に耳を澄ませること。「認知症」というだけでその方の持つ可能性を狭めず、一緒に隣を走りながら、引き出されうる力を信じること。

私はこれらを普段から意識するようにしています。しかし、わかっていることと、その通り行動できることは別物です。心と体に染み込むまで、いつも自分に言い聞かせ、振り返り、行動し続ける必要があります。無意識にできるようになるまでは、まだ遠い道のりです。

けれど、そう心がけること自体は、難しいことではありません。 ただ、今の自分の心のありようを、半歩立ち止まり、見つめるだけです。

この長文の記事をここまで読んでくださっているあなたは、きっと、誰かを大切に思っているからこそ、ここまで読み進んでこられたのだと思います。あなたがあなたの大切な人へ向けている優しさと、今取っている行動を、どうか責めないでください。「上手に扱おう」としてしまうのは、いいかげんな人ではなく、むしろ一生懸命な人です。

ただ、もし明日、目の前の方を「困った人」と思いかけたとき。その手前で、ほんの半歩だけ立ち止まってみてください。その半歩の先に、「認知症の人」ではなく、長い長い人生を生き抜いてきた一人の「人」がいます。そして、一生懸命に関わろうとしているあなたの姿が隣にいます。

もし、たった一つだけ持ち帰っていただけるなら——それは、この一つで十分だと思っています。

一見「困った行動」のように見えるその裏側にいる、「認知症の人」ではない、大切な「その人」の心の声に、耳を澄ませてみること。

私が今も心がけているのは、まとめるなら、ただそれだけなのです。

必要な知識を身に付け、「症状」の奥にある心に触れたとき、あなたが今お持ちの愛は、あなたの大切な人の心の器に、見えなくとも、反応がなくとも確かに注がれます。そしてこの先どんなことがあっても、あなたの大切な人は、そこに注がれたあなたの愛に支えられ続けます。

あなたがあなたの大切な人にできること、それは、正しい知識を身に付けること、そして「認知症」というラベルの奥に隠れた「人」の心の声に、耳を澄ませることです。

あなたの愛があなたの大切な方の心の器に注がれていることを想像してみてください。そして、あなたの愛を嬉しそうに受け取るその方の顔も。

そして、心の声に耳を澄ませるための、もう少し具体的な関わり方は、別の記事に少しずつ書いています。もしよろしければ、そちらの記事も覗いてみてください。

関連リンク:ブログ『教科書にはのっていない 認知症の方が「もう帰る!」を繰り返すときのポイント 3選』

関連リンク:ブログ『「さっき食べたのに‥」認知症の方が「ご飯まだ?」を繰り返すとき知っておいてほしいこと 4選』

私も、まだ学び続けている途中です。時々後戻りしてしまうこともありますが、一緒に、半歩ずつ進んでいけたら嬉しいです。

私がどんな道をたどってきたかは、ルカについてにも書いています。よろしければ、そちらもご覧ください。

大変な介護の中、長文を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

あなたの大切な人だけでなく、他の誰よりもあなたご自身が自分を大切にすることができ、これからが少しでも笑顔の多いものになりますように。


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