あなたの大切な方の介護、毎日本当にお疲れ様です。
施設や病院に入られた認知症の女性の方々は、誰もブラジャーをつけておられないことをあなたはご存知でしょうか。
私の勤める施設でも、ブラジャーをつけられている女性のご利用者様をこれまで見たことはありません。
ではなぜ入院・入所されている認知症をお持ちの女性の方々は、ブラジャーをつけないことが当たり前になっているのでしょうか。
今回は、9割の人が知らない認知症になることで失われる大切なものについてお話しします。
※以下の記事は、個人の見解を含みます。
・・今日のポイント・・
- 「認知症になれば諦めるのが当然」という偏見
- 気付かないうちに奪われる自由と尊厳
- 平等な生きる権利とあたたかな理解を
「認知症になれば諦めるのが当然」という偏見
なぜ施設へ入所する女性はブラジャーをつけていないのでしょうか。
それは、世の中の偏見が大きくかかわっています。
入所する女性がブラジャーをつけていない理由。
それは入所される際、家族も職員も「もう歳だからブラジャーなんか要らないはずだ」と思っていることです。
ましてや認知症も患うと、「認知症にもなってブラジャーなんて要るはずがない」と無意識に思い込んでいる現実があります。
もし病前ブラジャーをつけることが習慣だったとしても、家族でブラジャーを用意する人はいません。
介護がしにくいだろうという気遣いもあると思います。
別の例をお話しします。
病前、会社役員を務めていた男性。
プライベートでもカッターシャツにネクタイを締め、ズボンにはベルトを巻いていました。
このようなきちんとした服装は自分らしさの証であり、役員である自分の誇りを表していました。
しかし、認知症を発症し施設に入所することになりました。
施設で彼が着る服はジャージの上下です。
カッターシャツやネクタイ,ベルトは、介護する上で手間がかかるからです。
ジャージだと着替えは楽です。
ただ、それは本人の望む姿でしょうか?
気付かないうちに奪われる自由と尊厳
このことは、ジャージを着せている介護者・家族を責めているのではありません。
日本ではそれが当たり前という世の中になっており、認知症の方々の何を失わせているのかを自身で気付くことさえ難しい現実があります。
エイジズムという言葉をご存知でしょうか。
エイジズムとは、アメリカの学者ロバート・バトラーが作った言葉で、バトラーは、「年をとっているという理由で高齢者たちを組織的に一つの型にはめ差別すること」と述べています。
簡単に言えば、エイジズムとは年齢による差別であり、「お年寄りは若者より人として劣っている」という偏った見方と差別です。
エイジズムは意識的な差別の他に、無意識的な差別があります。
「高齢者にはブラジャーなんていらないはずだ」
という思い込みも、本人が気付かないうちに差別している例です。
バトラーと同じく、アメリカの学者エルドマン・パルモア(Erdman B. Palmore)は、エイジズムを①人種差別(レイシズム)と②性差別(セクシズム)につづく、③番目の重い差別であると主張しています。
私は年齢差別に認知症差別が加われば、人種差別や性差別よりもはるかに重い差別となりうると思っています。
色ボケという言葉を聞いたことがあるでしょうか?
認知症になって異性にアプローチしようとすると、
「あのおじいちゃん、ボケてるのにそこだけはしっかりしてるのね」
などと心ない言葉を言われることがあります。
認知症の有無にかかわらず、異性(または親しい人)に関心を持ち、近づきたいと思うことは自然なことです。
私も家庭を持っており、妻の側にいたいと自然に思います。
しかし、認知症になったとたん異性に関心を持つことが普通ではないかのように捉えられてしまいます。
これは、気付かないうちに「認知症高齢者」というレッテルを貼り、偏った見方で見てしまっているためです。
なぜ認知症になったからといって、年を取ったからといって、異性に関心をもってはいけないのでしょうか?
施設に夫婦で入所した場合、部屋は別にされ、夜に一緒のベッドで寝ようとしたら引き離されたという話はよく聞きます。
確かに施設管理上の問題もあるかと思いますが、「年をとって認知症もあるのに、同じベッドで寝るなんて」という偏見も確かにそこに存在していると思います。
夫婦が同じベッドで寝ることさえ、健常者と同じように考えられなくなっているのが分かります。
このように、ほとんどの人が気付かないうちに行われている多くの差別の中で、認知症を患う方々は自由と尊厳を奪われていきます。
これこそ、認知症の病気そのものの苦しみの上に、上塗りするようにさらなる苦しみがのしかかっている現実です。
自由と尊厳が奪われるのが当たり前だった時代のことは、認知症の歴史の記事ご覧ください。
このような悲惨な過去を受け、現代では認知症の方々の自由と尊厳を守ろうという動きが強くなっています。
ですが、まだまだ認知症の方々が自分らしく過ごせる時代には届いていません。
私も含め、気付かないうちに認知症の方々をあちら側の人として接してしまい傷つけていることが多々あると思います。
このことは、認知症研究の第一人者で、自身も認知症となられた故・長谷川和夫氏もおっしゃっています。
(長谷川和夫氏の言葉は、認知症とはの記事をご覧ください。)
平等な生きる権利とあたたかな理解を
認知症による苦しみに加え、偏見の中で生きることを強いられる方々。
認知症と共に生きる方々に、私たちは何ができるでしょうか。
私たちにできる最も大切なことは、下の3つです。
- 共感的理解
- ありのままを受け入れる
- 寄り添う
共感的理解
共感的理解とは、その人の置かれた立場に立って理解することです。
同情とは何が違うのでしょうか?
同情は、同じ立場に立っていません。
あくまで自分の立場は変えずに、上から「可哀そうに」と憐れむことです。
それに対し、共感的理解は相手の立場に身を置きます。
認知症の方々の苦しみを一緒に感じ、考え、同じものを見ようとします。
例えば、ご飯を食べたばかりの方が「ご飯まだですか?今日はまだ何も食べていないんです」とおっしゃった場合、「ご飯を今日はまだ何も食べていない」その方の世界に身を置いて考えます。
「今日はまだ何も食べていないんですね。お腹がすいたでしょう。辛かったですね。」のように、その方の世界の見え方を共感して受け入れます。
「さっき食べてたじゃないですか。私、あなたが食べるの見てましたよ。」と言われる介護者の方も残念ながらいらっしゃいます。このように言われると、自分の世界を否定された気持ちになってしまいます。
その方の世界の見え方を共感して受け入れるには、認知症の知識が必要です。
たとえば、「ご飯はまだ?」と何度も聞かれた際、
「この方はご飯の記憶がなくなってしまっていて、毎回初めてのつもりで尋ねているんだ。
何度も聞くということは、不安なのかな?」
とその方の見え方を推測することで気持ちに寄り添いやすくなります。
もし認知症の知識がなければ、なぜ何度も「ご飯まだ?」と聞くのかわからずに相手の立場に立てず、
「ご飯はさっき食べたじゃないですか!」
と言ってしまいたくなります。
森ノ宮医療大学の松下氏は、共感的理解こそ認知症の方にかかわる際に最も大切なことであると述べています。
もし認知症の方にかかわる際には、その人の置かれた立場に立って理解することを心がけていただければと思います。
認知症の方も、共感的理解をなにより必要とされています。
ありのままを受け入れる
ありのままを受け入れるとは、忘れてしまうその人をそのまま肯定することです。
認知症となりできないことが増えて不自由なことが多くなると、人としての価値は下がるのでしょうか?
どんなに認知症が進んでも、ひとりの人としての価値は変わりません。
一方で、認知症と共に生きる方々は、忘れていることや失敗をとがめられ、あきれられ、困惑されながら過ごされています。
たとえどんな失敗があっても、とがめることなく変わらない態度で接してもらえれば、認知症の方にとって救いとなります。
「忘れてしまっても大丈夫ですよ」
「失敗しても大丈夫ですよ」
介護者がこのような姿勢でいられたらいいなと思います。
ただ、実際に介護されているご家族にとっては、わかっていても大変難しいことだと思います。
いくらありのままを受け入れるのが良いと言われても、そんな余裕はとてもないというのが現実ではないでしょうか。
私も専門職でありながら、自宅で介護をしていた際に全く心の余裕を持てなかったときがありました。
そんなときは、「わかっているけどイライラしてしまう」介護で行き詰まらないための楽になる方法の記事をご覧ください。
家族が余裕がないのは仕方がないと思いますが、介護のプロである専門職の皆さんはありのままを受け入れることを心がけていただければと思います。
ありのままを受け入れることは、森田療法という精神科の心理療法で取り入れられている方法でもあります。
寄り添う
寄り添うとは、愛をもって側にいることです。
愛をもって、というと理想論のように聞こえたり、気持ち悪く聞こえる方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、どんな人間でも全ての人が愛を求めています。
イギリスのトム・キッドウッド氏は、介護者や家族ではなく認知症の本人を中心にしたケアをしなければならないという考え方(パーソンセンタードケア)を広めました。
それまでは、認知症になれば本人の希望は聞いてさえもらえず介護者や家族の希望のみが優先されていました。
パーソンセンタードケアでは、認知症となってもだれもが求めていること(ニーズ)の中心に愛を置いています。
愛とは、同じ人間として無条件に尊重することです。
たとえば、妄想があったとしても、トイレの失敗があったとしても、記憶が失われたとしても、劣った人間として見ることなく、かけがえのない大切な人間として接し続けることです。
愛をもって接することは、認知症が重度となり会話が難しくなった方,寝たきりで声掛けに反応がなくなってしまった方などに対して特に重要となります。
反応がなかったとしても目を合わせて声をかけ、優しく触れ続けること。
このような愛を伝えるケアは、ご本人様が反応がなかったとしても誰もが必要としていることであり、自分で求めることができなくなったからこそ誰かの手によって愛が与えられることがより重要となります。
「でも、愛を伝えるっていってもどうしたらいいの?」
という方がほとんどだと思います。
認知症の方に「あなたのことを大切に思っています」と愛を伝える技術にユマニチュードがあります。
例えば、
- 正面から目線の高さを合わせる
- はっきりとした笑顔
- 穏やかで優しい低めのトーンで話しかける
- 優しく触れる ・・etc
ユマニチュードの基礎は、家庭でも取り入れやすいものばかりです。福岡市では、全国に先駆けて普及に市をあげて取り組まれています(福岡市フレンドリーシッププロジェクト)。
詳しくは、かかわりの技術 認知症の方との絆を作るために 今日からできること 3選 をご覧ください。
まとめ
今回は、なぜ施設に入所している女性は誰もブラジャーをつけていないのか 認知症になることで失われる本当に大切なものについてお話ししました。
認知症になると、病気そのものの大きな苦しみ(記憶が失われること,動作がむずかしくなることなど)に加えて、差別される苦しみがあります。この差別は、差別している周囲は気づいていないことがほとんどです。まず、この二重の苦しみの中で生きられていることを知ることが、認知症の方が安心して過ごせるためのヒントになると思います。
フランスのユマニチュードを取り入れている施設では、入所されている女性はブラジャーをつけておられます。また、認知症になっても、高齢になっても、自由と尊厳を失わず自分らしく生きておられる様子は、日本に住む私の目には別世界のように映りました(詳しくは、フランス ユマニチュード認証施設紹介をご覧ください)。
・・今日のポイント・・
- 「認知症になれば諦めるのが当然」という偏見
- 気付かないうちに奪われる自由と尊厳
- 平等な生きる権利とあたたかな理解を
- 共感的理解
- ありのままを受け入れる
- 寄り添う
認知症の方々へ寄り添い、励まし、その人らしく生きることを助けるには、私はユマニチュードを学ぶことが一番だと思っています。
もしあなたが目の前の認知症の方へのかかわりで悩まれているのであれば、ぜひこの機会に本を手に取ってみてはいかがでしょうか。
↓はユマニチュードをイラスト付きで分かりやすく書いてあるのでおすすめです。
私もこの本からユマニチュードを学び始めました。とても分かりやすく、今日から取り入れられるものばかりです。
もし専門的に学びたいという方は、日本ユマニチュード学会HPをご覧ください。
少しでもあなたの参考になれば嬉しいです。
最後まで読んでいただきありがとうございました。